小学生の『なぜ?』に親は全部答えるべき?東大卒の父が考える好奇心の育ち方

小学生の学び

子どもと話していると、

「なんで?」

「どうして?」

と聞かれることがあります。

親としては、聞かれたことにはきちんと答えたほうがいい。

分からなければ調べてでも教えたほうが、子どものためになる。

そう考える人もいるかもしれません。

でも私は、親が子どもの疑問に全部答える必要はないと思っています。

先日、小学3年生の次男の授業参観に行きました。

教室には、子どもたちが作った粘土の作品が飾られていました。

次男が作っていたのは、カブトムシ。

これが驚くほど本物らしくできていました。

前年の夏、祖父母の家の近くの山で、次男はたくさんのカブトムシを捕まえています。

作品を見ながらその話をすると、次男は、

「そうだ。その記憶があるから、僕できたのかもしれない」

と言いました。

親が「カブトムシはこういう形だよ」と教えたわけではありません。

自分で捕まえ、触り、観察した経験が、時間がたって別のところでつながったのだと思います。

子どもは、親から教えられることだけで学んでいるわけではありません。

学校で学ぶ。

本を読む。

友達と話す。

外で遊ぶ。

実際に見たり、触ったりする。

そして、そうした経験が子どもの中で少しずつつながっていく。

だから「なぜ?」と聞かれたときも、親がすぐに正解を与えることだけが答えではないのではないでしょうか。

今回は、子どもの好奇心に親がどう付き合えばいいのか、わが家の経験から考えてみます。

「なぜ?」と聞かれると、親は答えたくなる

子どもから、

「なんで?」

「どうして?」

と聞かれると、親としては答えてあげたくなります。

知っていることなら説明する。

知らなければスマートフォンで調べる。

もちろん、それが悪いわけではありません。

私も、知っていることなら普通に答えます。

ただ、毎回すぐに正解を教える必要があるのかというと、そうではないと思っています。

「なんでだと思う?」

と聞き返してみる。

一緒に考えてみる。

分からなければ、そのままにしておく。

そんなことがあってもいい。

子どもが疑問を持った瞬間は、答えを覚える機会であると同時に、自分で考える機会でもあるからです。

親がすぐに答えを出してしまえば、その疑問はそこで終わります。

でも、答えが分からないまま残っていることで、後になって学校で習ったことや、本で読んだこと、実際に経験したこととつながることもあります。

「親が何でも教えること」と「子どもが自分で学んでいくこと」は、同じではありません。

私は、子どもの「なぜ?」を聞いたとき、正しい答えを与えることだけが親の役割ではないと思っています。

教えなくても、子どもの中で経験はつながっていく

次男が作ったカブトムシを見て、私は面白いなと思いました。

前年の夏に山でカブトムシを捕まえたとき、私は、

「よく観察しておきなさい。来年、粘土で作るかもしれないよ」

などと言ったわけではありません。

次男も、何かの勉強になると思ってカブトムシを捕まえていたわけではないでしょう。

ただ、夢中になって捕まえて、見て、触っていた。

その経験が、後になって粘土の作品を作るときに生きました。

しかも、それに気づいたのは次男自身です。

「その記憶があるから、僕できたのかもしれない」

という言葉を聞いて、子どもの中では、親が思っている以上にいろいろな経験がつながっているのだと感じました。

これは、カブトムシだけではないと思います。

公園で遊んだこと。

旅行で見た景色。

本で読んだこと。

学校で習ったこと。

友達から聞いたこと。

子どもの遊びを「勉強とは別の時間」と考えなくていいと思っています。遊びの中で得る経験については、「東大卒の私が『小学生は遊んだほうがいい』と考える理由|勉強より夢中になる時間」でも書いています。

そのときには何の役に立つか分からなくても、後になって別の経験とつながることがあります。

だから私は、子どもの経験をすぐに、

「これは勉強になる」

「これは将来役に立つ」

と意味づけしなくてもいいと思っています。

子どもは、経験したことを自分の中にためながら、必要なときにそれをつなげていく。

親がすべてを教えなくても、子どもは自分で学んでいるのだと思います。

分からないことを、すぐに解決しなくてもいい

子どもから質問されて、親も答えが分からないことがあります。

そんなとき、

「ちゃんと調べて教えなければ」

と思う必要はないと私は考えています。

もちろん、一緒に図鑑を見たり、インターネットで調べたりするのもいいでしょう。

でも、

「お父さんも分からないな」

で終わることがあってもいい。

疑問が、その場で解決しないまま残ることもあります。

そして何日後、何か月後、あるいは何年後かに、学校の授業や本、実際の経験の中で、

「あ、そういうことだったのか」

と分かることがあります。

その瞬間、以前の疑問と新しく知ったことがつながります。

私は、この「つながる」という経験が大切なのではないかと思っています。

親がすぐに答えを与えれば、効率よく知識を増やすことはできるかもしれません。

でも、子どもの学びは、いつも効率よく進む必要はありません。

分からない。

考える。

忘れる。

またどこかで出会う。

そして、分かる。

そんな遠回りも、子どもが自分で学んでいく過程の一つなのだと思います。

親の役割は「答えること」より「興味を邪魔しないこと」

親が何でも教えなくていいと言っても、子どもの質問を無視すればいいということではありません。

子どもが、

「なんでだろう?」

と言ったとき、

「そんなこと知らなくていいよ」

「今忙しいから」

と毎回終わらせてしまえば、せっかく生まれた興味も消えてしまうかもしれません。

答えを知らなくても、

「面白いね」

「なんでだろうね」

「どう思う?」

と返すことはできます。

図鑑を見たければ、一緒に見る。

実際に見てみたいと言えば、できる範囲でその機会をつくる。

でも、親が先回りして、

「せっかく興味を持ったから、もっと勉強させよう」

と教材を用意したり、知識をたくさん教え込んだりする必要まではないと思います。

カブトムシを捕まえるなら、ただ夢中になって捕まえればいい。

公園に行ったら、ただ遊べばいい。

その経験から何を受け取るのかは、子ども自身です。

親が好奇心を「育てよう」としすぎるより、子どもから出てきた好奇心を邪魔しない。

私は、そのくらいの関わり方でいいのではないかと思っています。

子どもは、親が見ていないところでも学んでいる

授業参観に行くと、普段家では見えない息子たちの姿を見ることがあります。

学校で先生の話を聞く。

友達の考えを聞く。

自分で手を動かす。

分からなかったことを知る。

家で親が何かを教えていない時間にも、子どもはたくさんのことを経験しています。

次男のカブトムシもそうでした。

山で遊んだ経験と、学校で粘土を使って作品を作る時間。

親から見ればまったく別の出来事が、次男の中ではつながっていました。

親は、子どもの成長をすべて見ることはできません。

そして、すべてに関わる必要もないのだと思います。

「これを教えなければ」

「この疑問には答えなければ」

「もっと学ばせなければ」

と親が先回りしなくても、子どもは学校や友達、本、遊び、自然など、いろいろなものから学んでいきます。

もちろん、子どもが助けを求めてきたときには手を貸せばいい。

一緒に考えてほしいと言われたら、一緒に考えればいい。

でも、親がいつも先生になる必要はありません。

親がどこまで子どもの勉強に関わるかについては、「小学生の勉強はどこまで親が見る?東大卒の父が考える親のサポート」でも、わが家の考え方を書いています。

子どもには、自分で興味を持ち、自分で経験し、自分なりにつなげながら学んでいく力がある。

私は息子たちを見ながら、その力をできるだけ邪魔せずに見ていたいと思っています。

まとめ|「なぜ?」の答えを、親が全部教えなくてもいい

子どもから「なんで?」「どうして?」と聞かれると、親は答えてあげたくなります。

もちろん、知っていることを教えるのも、一緒に調べるのもいいと思います。

でも、すべての疑問に、その場で正解を与える必要はありません。

「なんでだろうね」と一緒に考える。

「お父さんも分からないな」で終わる。

分からないまま、しばらく置いておく。

そんなことがあってもいい。

子どもは、親との会話だけから学んでいるわけではありません。

学校、本、友達、遊び、自然、旅行。

いろいろなところで経験したことが、子どもの中に少しずつ蓄積されていきます。

そして、ある日、それまで別々だったものがつながって、

「あ、そういうことだったのか」

と分かることがあります。

次男が、前年にカブトムシを捕まえた記憶を、翌年の粘土作品につなげたように。

親ができることは、すべての答えを教えることではなく、子どもが興味を持ったときに、その興味を邪魔しないことなのかもしれません。

必要なときには手を貸す。

一緒に考える。

でも、先回りして全部教えない。

子どもには、自分で世界を知り、自分なりに考え、学んでいく力があります。

その力を信じて見守ることも、親にできる大切なことだと私は思っています。

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